風に吹かれて

山本和彦
2006年2月

プロローグ

そのホールド(岩のでっぱり)を右手で掴んだとき、僕にはロープを安全装置に掛けるまでの時間、握り続ける力が残ってないことを悟った。それまで高さは気にならなかったが、 今は背中に大きな空間を感じる。僕を守ってくれる安全装置は、足下よりも遥かに下。つまり、長い距離を落ちるということだ。

怖がってジタバタすると怪我をするおそれがある。覚悟を決め、体勢を整えて潔く手を離す。刹那、重力が全身を駆け抜けていく。 傍から見れば、「もの」がたった 4m落下しただけのことだ。しかし、落ちている本人は、怖くて長い時間を味わう。次の瞬間、僕はロープにぶら下がった状態で空中に止まっていた。

今日もまた、登れなかった。

城ヶ崎の「風に吹かれて」

そのルートは、城ヶ崎にある。

城ヶ崎は東伊豆に位置し、溶岩が創った複雑な海岸は風光明媚の形容が相応しい。 散策路が海岸線を這うように整備されており、運がよければ野生のリスにも会えるだろう。城ヶ崎へ行くには、早起きと長時間のドライブを強いられるが、天気の良い日に松や磯の香りをかぐと、来ただけでもよかったと清々しい気分になる。

城ヶ崎 風に吹かれて

冬でも暖かく、無尽蔵に岩を有する城ヶ崎は、日本を代表する冬の岩場である。今シーズン、僕は年末からここに通い始めた。目的は「風に吹かれて」というルートである。 岩登りのことを知らない人が、その圧倒的なオーバーハング(張り出し)を見れば、 人間が登っていけるとは、にわかには信じられないだろう。

「風に吹かれて」は、4つのパートに分けられる。スタートから割れ目沿いに傾斜の緩い部分を 5m 程登り、最初の安全装置にロープを掛け、右に移動して第二の安全装置にロープを掛けるまでが第一パート。初心者であれば、最初の 5m さえ登れないだろうが、このルートを目指す人にとっては、このパートは易しいし疲れない。

第二パートは、大きな棚に両手を添えてぶら下がった状態から、 2m上の水平に走った長いレール状のホールドを取って、第三の安全装置にロープを掛けるまで。傾斜がきつく、ホールドが掴みにくいので、多くの人がここを一番難しいと感じるようだ。途中に両手を突っ込める大きな穴が空いており、そこからレールを取るにはいくつかの方法がある。

レールから大きなホールドをつないで登り、 第四の安全装置にロープを掛け、ハングを乗り越すまでが第三パート。そこから傾斜が落ち、終了点までが第四パートとなる。第四パートは、このルートを登れる人にとっては快適だから、第三パートで実質終了となる。 冒頭で僕が落ちたのは、第四の安全装置の手前。 すなわち、もう少しで実質的に完了となる部分だ。

悪循環

「風に吹かれて」の難易度を示す 5.11a という数値からすれば、僕には問題なく登れるはずだった。事実、早い段階で最も難しい第二パートの手順は解決したし、休んだ後に第三パートをやると、ここも登ることができ、快適な第四パートもまったく問題ない。 すぐに登れると信じて疑わなかった。

しかし、下からつなげてみると、体力が続かない。第三パートにある第四の安全装置にロープを掛ける手前で力尽き、長い距離を落ちる。 それを繰り返している内に、自分には登れないのではないかという精神的な壁ができてしまった。

こうなると、年末に痛めた左手首の痛みが気になるのに加え、「また落ちるんじゃないか」という恐怖感から弱気になって、第三パートに思い切りよく突っ込んでいけなくなってしまった。1月の週末は、いつも打ちひしがれた気分で、岩場を後にした。

自分の弱点は持久力だと考え、平日のトレーニングは、これまでの困難な動作の追求から、持久力の向上へと切り替えた。 しかし、やはり第三パートで怖くなり、身動きが取れなくなって落ちてしまう。悪循環に陥り、頭の中は混乱するだけだった。

転機が訪れたのは2月。久しぶりに纐纈(ak2)さんが加わり、登っているさまをビデオに撮影してもらった。(ちなみに、纐纈さんは一日で登れ、「なぜ kazuが登れないのか分からない」と言っていた。)

何度か練習した第三パートを見ると、 早めに足を上げるのが悪いと分かった。背が高い僕は、他の人とは違い、足を上げると窮屈になって、身動きが取れなくなる。最後の最後までレールの上に足を残す方がよさそうだ。

手順はイメージできた。布団に入ってから寝付くまでにイメージトレーニングすると、冬だというのに手にうっすらと汗をかく。怖さをかみ殺して、第三パートに突っ込んでいけるだろうか?

完登

2月11日。7時に纐纈さん達を長津田で拾い、高速と有料道路を乗り継いで車を走らせる。天気の良い祝日のせいか、道は混んでいるが、城ヶ崎にはいつものように9時半過ぎに到着した。今日は暖かい。5月を思わせる陽気だ。ストレッチの後、簡単なルートでウォーミングアップをしてから、「風に吹かれて」への挑戦を始めた。 今日は左手首も痛くない。

心を落ちつかせてから登り始める。第一パートで落ちるとは微塵にも思っていないが、念のために割れ目に特殊な安全装置を設置して、ロープを掛ける。さらに二つの安全装置にロープを掛けながらスムーズに登っていき、右の大きな棚に両手でぶら下がった状態になる。ここから第二パート。本番だ。

中央の穴は結構遠い。僕は、右足の膝を落とすキョンという技を使い、左手で強烈に引きつけて右手を出す。 左手を添えたら、両足を上げる。ここで、右手を外すために、右足の踵で乗っている岩を挟み込む。僕独自の方法だ。 右手で細かいホールドを取れたら、勢いよく左手でレールを掴み、 第三の安全装置にロープを掛ける。ここまでの動きはスムーズで、まったく疲労していない。

左手で強烈に引きつけて、大きな穴をに取る レールを取って、第三の安全装置にロープを掛ける

左右の手を片手ずつ大きく振って休めた後に、 右手を取り、左足を高く上げて踵をレールにかけ、 左手で上のホールドを豪快に取る。右足をできるだけ下に残し、右手を取って、さらに左足をレールの上にたたみ込んで、少し遠い左のホールドを取る。右足もレールの上でひねって、右手でホールドを取る。ここまで体が伸びたら、足を上げてもいいだろう。右足を上げ、右手を目的のホールドに送った。

レールに左足の踵を掛け、豪快に左手を出す 第四の安全装置にロープを掛け、重圧から解放された

そのホールドを右手で掴んだとき、 僕はこのルートを登れることを確信した。ロープを掛けるための力は十分に残っている。丁寧に左足を上げ、体勢を安定させてから、第四の安全装置にロープを掛けた。 それは、すべてが解放された瞬間だった。もう怖くない。

叫びながら左手を出し、左の岩に左足を掛ける。後は、左足に乗り込んでオーバーハングを越えるだけ。手がそろそろ悲鳴をあげそうだ。 しかし、少しでも手に力が入るなら、僕の技術では絶対に落ちない。手をきめるのにまごつきながらも、左に体重移動してオーバーハングを乗り越した。

少し休んだ後、残りの快適な部分を余韻に浸りながら登っていった。

エピローグ

「自分には登れないのでは」という精神状態では力が出ない。今回はその精神的な壁を乗り越えるのが難しかった。2月と3月は出張のため週末がつぶれることが多くなるから、その前に登れて本当によかったと思う。登れた日の夜は、纐纈さんと焼き肉屋で乾杯した。

それでは、「風に吹かれて」の全シーンをビデオでどうぞ。撮影してくれた纐纈さん、ありがとうございます!