エンジニアの独り言「最も弱い環の原則」

山本和彦

IPv6 magazine、2003年春号、pp. 92-93
IPv6 magazine の許可を得て転載

僕は岩を登るのが好きだ。週末には、湯河原などの岩場に繰り出すか、クライミング・ジムで岩登りを楽しんでいる。

岩登りの醍醐味は、やはり岩を登りきることである。自分の限界レベルにあるルートを何度も練習し、登り終えたときの喜びはひとしおだ。続けていれば、どんどん上達し、上半身の筋肉は発達、柔軟性は向上し、バランス感覚が磨かれる、といいことづくめ。

しかしながら、日本でのこのスポーツに対する認知度は高いとは言えない。そのためか、多くの人が岩登りに対して誤解を抱いている。それらは、二つに集約できると思う。

一つは、岩登りは危険だという先入観だ。

今では中級者となった僕も、昔は高所恐怖症で、最初に騙されて岩を登ったときは、震えが止らなかった。しかし慣れてくれば、本質的に危険なことと、単に精神的に恐いことの違いが分るようになる。

岩登りは、多くの人が想像するよりもはるかに安全なスポーツだ。僕はエンジニアであるが故に、岩登りのシステムをエンジニアの視点で見でみることがある。面白いことに、岩登りで安全性を確保する仕組みには、工学のそれと共通点を見い出せる。

僕らが登る岩は、初登者によって開拓されている。初登者は、岩に程よい間隔でボルトを打つ。ボルトには金属の環が付いており、ロープを引っ掛けられるようになっている。

登る人は、形がふんどしのような頑丈な用具を履き、それにロープを結び付ける。ボルトの付近まで登ったら、ロープをボルトの環に掛ける。このようにロープは登るためではなく、安全を確保するために使う。

ロープの逆側は、地面にいるもう一人の人が支えている。登る人が落ちたら地面にいる人がこの衝撃を受け止め、またロープも伸びることによって衝撃を吸収する。2m〜3m 落下することになるが、落ちた人は安全に停止する。

素直に落ちれば、精神的には恐いが、怪我をすることはない。逆にあせって目の前のボルトなどを掴むと、精神的には安心に感じるかもしれないが、金属で指を切断するなどの危険がある。落ちるときは、潔く落ちなければならない。

もちろん、まったくの初心者には、このような登り方は無理である。そこで経験者がロープを引っ掛けながら登った後、頂点に支点を作りロープをつるべ状に掛ける。初心者は、このロープに守られながら登る。登る人は、ちょうどつるべのバケツに相当すると思えばよい。この登り方では落ちたとしても、落下距離はせいぜい 30cm。安全そのものだ。

ロープには人の落下程度では絶対に切れない強度がある。また頂上の支点は二重化されており、もし一方が壊れたとしても問題にはならない。

ロープを腰の用具に結ぶためには、二重八文字結びを使う。この方法で結べば、人が落下してロープが引っ張られると、きつく締るので絶対にほどけない。また上下左右が対称なので、一見して結び方が正しいと確認できる。

このように岩登りでは失敗する可能性を限りなくゼロに近づけることで、マーフィーの法則が適応される隙をなくしている。長い試行錯誤の上に構築された岩登りの安全性は、工学の視点で見ても、実に利にかなったものだ。

誤解のもう一つは、手の力が強くないと岩は登れないという思い込みだ。

初心者の内は、垂直よりも傾斜の緩い壁しか登れない。表面がデコボコの岩は簡単過ぎるので、岩登りの対象になる緩傾壁はツルツルだ。

このような岩では、腕の力はあまり役に立たない。手はただバランスが崩れないように引っ掛けておくだけ。岩登りで大切なのは、足の使い方だ。

足はいつも体重を支えているので、標準的な人の足には、岩を登るために十分な筋力がある。緩傾壁で大切なのは、腰をピタリと壁にくっつけたまま足を高く上げる柔軟性と、その足で立ち上がるバランス感覚である。

初心者を脱して初級者になると、垂壁よりも傾斜のきつく、表面がデコボコした前傾壁を登れるようになる。前傾壁では、上体を岩につなぎ止めるために、手の力が必要になる。しかしながら、この場合も手の力で登るのではない。重要なのは技術なのだ。

被った岩に両手両足でくっついている場面を想像して欲しい。ここで次のでっぱりを右手で取りたいとしよう。

初心者は、壁に向き合ったまま右手を放すので、左手と左足を結んだ線を軸に、体が回り出す。この力に逆らって、右手を伸ばすには相当な力がいる。どんな怪力の持ち主でも、こんな風に前傾壁を登るのでは、一手も出せないだろう。

経験者なら、前傾壁で次の一手を楽に出すために驚くべき技術を使う。ヤジロベーの原理を利用するのだ。

右手を出したいのなら、左手で上体を支えているはずだ。この時、左手の真下のでっぱりに、右足の小指側で乗る。そうすれば、自ずと壁に対して左を向くことになる。

重心であるヘソの位置は、左手と右足を結んだ軸の上にあるから、体が回転することはない。ここで、左足を前(壁に向かって左方向)に大きく突き出せば、右手は釣り合うために勝手に上がり、次の一手が取れる。

右足にしっかり乗っていれば、左手で支えるのは体重の何分の一かで済む。もちろん、腕の力も必要ではあるが、このような技術を磨く方がはるかに重要だ。

岩登りは、握り方、足の使い方、柔軟性、バランス、勇気、力、休む技術など、さまざまな要素が絡んだスポーツなのである。

趣味で岩登りをする時間は限られているから、うまくなろうと思えば、何かを優先して鍛えなければならない。ここで多くの人が、得意な部分を伸ばすという間違いを犯す。

たとえば、怪力の持ち主がそれ以上の筋肉を身につけたとしても、岩登りは上達しない。自分の体重を支える以上の力は必要ないのだから。

鍛えるべきは自分の弱点だ。弱点こそが登れるルートの上限を決めている。それ故に、弱点を克服できれば岩登りは飛躍的に上達する。

岩登りのトレーニングについて書かれた名著「パフォーマンス・ロック・クライミング」では、これを「最も弱い環の原則」と呼んでいる。("A chain is no stronger than its weakest link." という英語の諺に由来すると思われる。)

鎖の強度を上げるためには、強い環を補強しても仕方がない。最も弱い環を強くしてこそ、鎖全体の強度は向上するのだ。

岩登りの分野でこの原則を学んで以来、僕は IPv6 の世界を「最も弱い環の原則」に照らし合わせて眺めるようになった。

多くの人が、「IPv6 の普及が進まないのは、キラー・アプリケーションがないからだ」と言う。それを否定するつもりはないが、IPv6 の世界は「鶏と卵」という説明で片付くほど単純ではないと思う。

岩登りが複雑なスポーツであるように、IPv6 の世界も複雑だ。キラー・アプリケーションの欠如も弱い環の一つではあるだろう。しかしながら、IPv6 を搭載したハード・ディスク・レコーダなどの応用が見えている現在、僕はこの点に関し楽観的である。

IPv6 の最も弱い環、それは ADSL 業者であると思う。ADSL 業者の腰は重く、なかなか BAS という装置をデュアル・スタック対応にしてくれない。それ故、ユーザは手動でトンネルを張る必要があり、IPv6 の長所の一つであるプラグ&プレイ機能を享受できない状況にある。

ADSL 業者がこの点に気付き、できるだけ早くこの最も弱い環が強化されることを望みたい。